草むしり

 

新しい家には庭があるが、前住人はどうも手入れをしていなかった様子でlivelyでない。

大家さんが我々の入居前に一応手入れをしてくれたようだが、芝は一部しかきれいに張っておらず、

一雨ごとに名前知らずの草ばかりが目立つ。

 

家の中が片付いてきたので、気合を入れて草をむしってみようと始めた。

これがハマった。

草むしりは早朝に限る。昨日はあまりに楽しいので、夕方も庭に出た瞬間に蚊にさされて即中止した。

虫除けや服装に気をつけていたのだが。今朝は朝7時から10時過ぎまで草をむしっていた。

自分でもこの集中力にはびっくりする。

 

「根をはる」や「根こそぎ」という表現を味わいながら、また草の根の張り方に凄みを感じながら、

ただ草をむしるのが楽しい。時にふとこれは雑草じゃない、いや雑草って見なさなければいいんだろうと

残してみたりするのが、適当な庭仕事で。

ただ、芝が張っているので高くなる草だけは私にとっては雑草。

 

庭草をむしっているだけで楽しいのだから安上がりだが、花を咲かせる自信がいまいちない。

三角葉ミモザハゴロモジャスミン、桔梗、綿などなど好きな花を思い浮かべてみるまでで今は精一杯。

 

さて、我が家の初庭はどうなることやら。

 

 

 

 

 

ありえないことを考えさせる素質

今のヨガの先生に出会って約1年。

1時間10分ほど車を走らせ通うお宅は、城垣を眺められる木の家。

 

先生の旦那様も体のメンテナンスのプロであるが、なかなか興味深い人。

赤ちゃんや子供と対等であり、すぐ友達になれる人。

 

その彼が今日も私に課題を与えてくれた。

新しい土地で新しい仕事を見つけるという私の発言に、

「仕事なんてしなくていいんだよ。ヨガを練習してればお金が入ってくるから」と。

 

怪しい話この上ない。

 

しかし、彼と接していると、いやいやヨガの練習とお金の関係性も考えてみる価値ありと思えてくる。

 

こんな話もある。彼のある生徒が鬱でアルコール依存であった。

ご近所であることもあり、彼女は彼のヨガ指導を受けるようになった。

そして、彼女からこんな話を先日聞いた。病院に通いながらも、先生の言葉マジックに洗脳されているような気がすると。彼は彼女に「ヨガやってるとアルコールが美味しくなくなるんだよ」とケラケラ言うそう。

 

とても不思議なエネルギーの持ち主である。自分のことしか考えてないような子供がそのままおじさんになったような人だ。とても純粋でとても自由奔放。そして、何事に対しても面白がっている。 

 

 

 

 

 

母の日

 

父が80歳、母が76歳。元気でいてくれて、それだけで幸せ。

 

両親が仕事を辞め、心配していた父よりも母の方を気にかけることが多い。

引退した後は、父の方が萎えてしまうのではと心配していたので、

本当に意外であった。

 

5年前に妹が亡くなり、ストレスから髪の毛が抜け落ちた。

貧血で倒れて頭を切ったこともあった。

 

母にとってこそ仕事が活力だったのだろうか?

妹の介護が母の生きる糧だったのだろうか?

 

しかし、母の日の電話で明るい声が聞けた。今は体調が上向きのようだ。 

どんなにか私がうれしかったことか。

 

もう一方、先日偶然にも父の走る姿が見れた。

80歳としてはしっかりとしたフォームで軽快に走っていた。

どんなにかびっくりしたことか。

 

 

 

 

 

愛する清志郎

 

ゴールデンウィーク忌野清志郎さんのライブコレクションの番組を見ている。

いっきに35年ほど前のあの時代にタイムトリップしてしまう。

 

先日、その高校1年生の頃の友人と話していて何十年間も

勘違いをしていたことがあった。それが初めて行ったRCサクセッション

のコンサート会場が虎ノ門ホールでなく、渋谷公会堂だったこと。

ずっと信じていたことが間違っていた。

 

15歳の時にRCサクセッションのコンサートに行ったことは、私の人生の宝物。

70年代、15で友達同士、あのコンサートに行けた私は幸せものだ。誇りでもある。

多感な揺れ動く想いと熱い想いをぶつけられる場だった。

 

この世に居ないあなたにみんなで引かれたのは、

どこまでも温かいハートを持ち合わせた清志郎だからだろう。

今、確かにそう思う。 

 

 

戯言

本物、上辺だけでなく真髄が正しい。

それを発見できたら生きている意義を見出せる。

それが人だったらさらにうれしい。

 

価値観ってなんだろう?

好きなところに暮らし、好きな人を友にし、好きなように過ごしたい。

 

狭い社会で密に濃く生き、ご先祖、お寺、部落、親族を軸に据える。

それを死守しよう、時勢に逆らおうとちぐはぐになり、

それこそ本物が薄れているような気がする。

 

私は人のうわさ話がこの世で一番嫌いだ。

うわさは推測を含み、事実もをねじ曲げる。

狭い社会ではそれが楽しみのようになるのはたいへん悲しいことだ。

 

私は日本全国に世界に目を向け続ける。

 

 

思いもよらぬ暖かい気持ち

 

熊本地震がまだ終息をみせていないなか、あたりまえの風景をこの目で見て心が動いた。

 

田舎の大学で学生が熊本にむけて寄付を始めたのはあっという間だった。

 

運ばれてくる大量の物資。水、トイレットペーパー、おむつとそのボリュームを

見ていたら、普段とのギャップに圧倒されてしまった。

この動いたエネルギーを思うと学生たちをあなどっていたことを猛省した。

静かになった時、その一つ一つを眺めては思うことがたくさんあった。

 

2Lのペットボトルには「負けんばい熊本!」とメッセージまで書かれてる。

自分には出来なかった。

 

東日本のときは自分が被災したからだろうか?

応援する人たちが起こした動きは、私の心の琴線にふれた。

3.11

あれから5年。

知人の回顧記を読んで自分も書いておいた方がいいと思い立った。

 

あの頃、職場でパソコンのトラブルを抱えており休日に出勤をする羽目になっていた。

その代休としてあの11日(金)は自宅にいた。偶然にもだ。

 

午前中に新しい大画面TVが届き、それを壁に立てかけて置いたことはよく覚えている。

 

そして、午後2時ごろ自転車で近くのスーパーに買い物に出かけた。いつもなら1階だけで済ますのに、その時は2階の「しまむら」を物色していた。ストッキングだったろうかレジを済ませ、帰ろうとした瞬間に揺れを感じた、と同時に走り出していた。その揺れは、昔遊園地にカーペットが横滑りするような乗り物があったが、まさに床が前後ろに思いっきり引っ張られているような感覚だった。

 

階段を降りようとしたところで立っていられなくなった。その頃には上からパネルのような物が落ちてくる、時おりバーンと。食品棚がガジャンガシャン揺れる音や一斉にキャーという叫び声も覚えている。

 

しばらくして階段を降りれると判断し、また駆け出すが途中で揺れがまた酷くなり

今度は1階のキャッシュディスペンサーの横で30代ぐらいのお兄さんと身を屈めた。

前には若い女性がベンチのそばに身を屈めているが上から物が落ちてきて危ない。お兄さんはベンチに潜れと指示をしている。私はこっちへと手招きしてしまった。

 

ここまででどれぐらいの時間が経過していたのだろうか?15分ぐらいだろうか?やっと外へ駆け出た。どうしてだろう、外へ出ることばかり考えていた。

 

とにかく自宅に帰らなくてはと自転車を引いて歩き始めた瞬間に「日本は大丈夫だろうか?沈没するのではないだろうか?」と思った。歩道のマンホールが15センチほど盛り上がっているのが異様だった。街はすでに静けさと不気味さが漂っていた。

 

留守番をしている犬が心配だったが、マンションの近くまでいくとベランダでウロウロしている愛犬を発見した。窓は開けていないはずなのに、揺れで開き犬は怖くてベランダに飛び出したようだ。

 

玄関で部屋の中を覗くと床が物で見えなくなっていた。犬を呼び寄せまた外に出た。なぜだか室内は危ないという思いが強く、とにかく広い広場に待機しようと思っていたようだ。

 

広場までたどり着くと大学生ぐらいの男性が数名たむろっていた。携帯を持ってないことに気づき、犬をその大学生たちにたのんで家に戻った。私が知っている部屋の様子と全く違うので携帯が探せない。焦るがやっと見つけ、避難用バックパックも持って犬のところに戻った。

 

夫から着信があったようだ。しかし、すでに携帯は全く繋がらない。災害時の緊急連絡ダイヤルってどうやってするんだっけ?近くに市民センターがあるのでそこまで言って聞いてみた。女性が緊急時の分厚いマニュアルファイルをひっくり返して見つけてくれたが、これ全く使えない。緊急災害ダイヤルは無意味だった。

 

市民センターには犬連れは入れないだろう。雪が降ってきたので車に避難する。ここでバックパックに入っているラジオをつけてみると仙台市内でも数百人の方が流されていると聞こえて来た。全く現実感がなかった。ただ、近くに広瀬川があるがだいじょうぶだろうかと思った。

 

そうこうする内に、友人家族がなぜかやって来た。一緒に部屋に戻り、夫を待つ。「遅いね」と友人は言うが、大学の学生誘導や点呼などで帰れないんだという確信があった。夫はそれでも自転車通勤なので暗くなる前に帰ってきた。

 

その夜は街に全く明かりがなかったが、駅前のビル1棟だけ灯っていた。その日の買い物で買ったパンを友人の子供にあげたことを覚えているが、何を夕食に食べたか覚えがない。翌朝、友人家族は帰って行った。彼女たちは仙台駅で被災し、1時間ほど歩いて我が家までたどり着いていたのだった。

 

それからの日々は時系列で思い出せないが、毎日買い出しに必死だった。食べるものを確保することばかりを考えていた。ガソリンの争奪戦も醜かった。

 

そして、原発。危ないという実感がないのだが、福岡に逃げることがあるかもと夫から告げられていた。

 

我が家は水道が幸運にも止まらなかった。電気は地震の翌日に。ガスは一ヶ月後。

 

 

お坊さんのパフォーマンス

三十三回忌に際して、お坊さんのお経と法話を拝聴する機会があったが、

私にはどうしても急ぎ足のお経であり、その後の法話も一度聞いたことのある話で

疑問符がつくものであった。

 

僧侶がお年を召してきているせいであろうか?

そもそも仏教の僧侶とはそのような次元の方ではないのであろうか?

 

もやもやとする気持ちを抱え、毎日父があげるお経の方がしっかとしており、

ありがたいと思ってしまう。いけないことなんだろうか?

 

 

キャンプキャンプまたキャンプ

宮崎に来てよかったことがあった。

それは野球の春季キャンプが見放題なこと。一度行って虜になってしまった。

 

なにがそんなに楽しいのだろう?

よく言われるのが選手との距離が近いということ。

突然背後から現れたりするので、びっくりしたこともあったし、

ウチの犬を撫でてくれたりする選手も。

 

また、まさにプロ野球選手の練習が見れることに感動した。

何度も何度も繰り返されるノックを、目にも留まらぬ速さの美しい玉さばきで返す。

その反射は練習の賜物で、美しすぎてメロメロになってしまった。

打撃練習では選手間のフォームの違いを眺めては、芯で捕らえるとはどういうことなのかを考えたりしてみた。

 

ソフトバンクも西武も、育成選手の練習は明るくて、期待を裏切られた。

育成ともなると悲壮感が漂い、しごきにも近い練習をするのかと思ったが、

最も楽しそうな練習をしていたのが育成選手たちだった。

今はそういう時代なんだろう、よかった。

 

投手陣のピッチング練習がまだ見れていない。

ブルペンは狭いので競争率が高いし、時間的にも限られているので

見るには計画的に準備が必要だ。

 

選手にとっては動物園状態なのでやりづらいと思うし、

ファンサービスも要求される。でも、それも含めてプロなんだろう。

我々ファンは彼らの仕事場に踏み込んでいることを忘れずにいなければいけませんね。

帰省

今回が初めて、年末年始に宮崎から東京への帰省。

どのようにして帰ろうか迷ったのだが、犬のことを一番に考え車で帰ることを決めた。

 

宮崎県延岡市を出発、東九州自動車道で北九州から本土へ。

山口、広島、岡山そして神戸、京都を抜けて琵琶湖で一泊。

翌日は戻って京都、名古屋から東名高速に入り、富士山をかすめて東京へ。

 

1日目は休憩含めて10時間、2日目は8時間ぐらい時間を費やした。

 

帰路は中央高速から名古屋、京都、大阪、神戸。

神戸から明石大橋を渡り淡路島、徳島で一泊。

 

翌日はこの旅で初めて、観光に時間を割くことが出来た。

香川観音寺の柳川うどんで「モチプル細麺」(という表現らしい)うどんを賞味し、

愛媛松山で道後温泉に浸かり、松山城見学。城下にある東雲神社で初詣。

 

その後、愛媛八幡浜からフェリーで2時間で大分。

あとは大分臼杵より1時間で延岡。

 

驚くべきことに私は一度もハンドルを握らなかった。

しかし、疲れた。