田舎に暮らすこと

 

逃げ場のない社会。

選択肢のない世界。

刑務所にいるかのような錯覚を覚えるほどの閉ざされた精神状態だった。

 

辛い気持ちを癒すために、華やかな美しい最先端の場が必要だった。

公私の区別がないということは、休まる時がなかった。

 

私には無理。

 

 

 

欧米との違い

 

昨日見たデンマーク映画の中で、不良学生が更生したのを表現するのに

シェークスピアマクベスをクラスのみんなの前で朗読したという場面があった。

 

日本だったら、偏差値40の子が70以上の学校に合格というような

設定になるんだろうなと思ったら悲しくなった。

 

知性や教養とは?

 

 

 

 

沈黙

 

遠藤周作の小説を巨匠スコセッシが映画化。

17世紀にキリスト教が禁ぜられていた時代のキリシタンへの弾圧の話である。

 

映像はとても悲しく美しかった。

アメリカ人が作る日本だが、とても洗練されていて違和感は感じられなかった。

 

それにしてもここまで残酷になっていた我々の祖先の心が計り知れなかった。

我々が花を摘むように、人が簡単に殺されていく。

未発達であったイコール野蛮という公式で片付けていいのだろうか?

 

発展し成熟した時代と思いたい今に、先人の負の遺産を深く考えてみる。

そして、神はこの不条理な状況に沈黙を続けたことも。

 

 

仕事

 

就活の面接にまた行く。

去年の夏頃から就活を断続的にしているが、何度も落とされている。

落ちるのには慣れているが、やはりしばし落ち込む。

 

引っ越してはこの繰り返しで、投げやりにもなりたくなる。

身の上を誰かのせいにしたくなる。

人を妬ましく、自分を惨めに思いたくもなる。

 

まぁ、自分には合っていなかったと、

受かっていたとしてもその先の行く末は神のみぞ知るだし、

などと思ってもみる。

 

理想

 

叶えられないのが暗黙の了解でも理想は理想、いつまでも掲げて欲しかった。

アメリカという国には。

私の憧れているアメリカはいつも自由や多様性を理念として掲げていた。

 

とても悲しい。

 

アメリカという国がどこに向かうのか?

とても心配だ。

 

 

 

 

永い言い訳

 

自己愛しか持てない小説家が、子供と関わることにより

愛を手繰り寄せ、愛と無様に格闘していくというような話。

 

私は小説家よりも、登場する6年生の男の子にとても興味を持った。

母が死んで父を拠り所とするはずが、学の無い父に反発する。

「おとうさんが死ねばよかったのに」とまで言わせてしまった。

 

今、猛勉強をし中学受験を目標としていることに、父は関心がなかった。

学問に関心がなかったように私には映った。

男の子には学問と自分が重なりあっている今の姿を、父が敬遠しているのが許せなかったようだ。

 

そんな状況に小説家が現れた。

男の子はこの情けない小説家の何に惹かれたのだろうか?

この男は大学出であったが、タレント小説家という設定だったと思う。

 

もしや、小説家の方が男の子の心情がわかり、心を寄せていたのが通じたのかもしれない。

大人の階段を一段づつ歩む男の子が小説家を成長させていった。

 

私はそのふたりの不思議な関係性に希望を見つけ、癒されていた。

 

 

 

ホームパイ

 

不二家ホームパイ

それは、今でもビビッドに思い出される光景の主役にいる。

 

幼稚園のお友達のお家に遊びに行った。

友達と言っても、母同士が仲が良く、近所にその幼稚園に通うのはその子だけだった。

 

お家に上がったのは、先にも後にもそれ一回の記憶しかない。

お屋敷だ。子供心にこの子とは育つ環境が違うなと思っていた。

でも、なんだかこのお家暗いなとも思ってた。

 

お友達のお母さんが出してくれたオヤツが、不二家ホームパイだった。

私はこれに衝撃を覚えた。こんな美味しい、おしゃれな食べ物があるなんて。

また、ホームパイに海外を夢見た。初めて感じた外国の味だったかもしれない。

 

その頃は不二家の店舗に行かなければホームパイは買えなかった。

2枚のパイが丁寧にシャカシャカと音がするセロファン

キャンディー包みでひねりくるまれていて、とても高級に感じていた。

 

母がバターが嫌いだったので、バターの味をこのホームパイで覚えたのかもしれない。

私のパイ好きはここから始まったのかもしれない。

 

今でも思い出せる。あのときの出会いを。

今でも大好きだ、不二家ホームパイ

でも、ディスカウントストアーで叩き売られ、薄くなったパイを見るとちょっと悲しい。

 

 

 

 

 

自分

 

一人の土曜日、雨宮まみさんの文章を読んで、赤ワインをチビリチビリ。

 

今になって、本当は自分がどんな思想の持ち主なのかが、それが生まれ持ったものと

育ってきた環境から作られて来たものであることが分かってきた。

 

若い頃は自分が分からなかった、いや自分に嘘をついていたような気もする。

本当の自分を押し殺していたのかもしれない。

 

でも、ムクムクと本性が現れた。

やっぱり隠していては正義が許さんといい子ぶっているのかもしれない。

 

でも、もう譲れない。

私の大切に思うことは譲れない。

そう信じると強くなれる。

 

ある人に教えてもらった覚悟という精神かもしれない。

アッコちゃん

 

矢野顕子のライブを見に行った。

そもそも夫が崇拝するミュージシャンのひとりで、私はお供で聴き始めた。

もうステージは何回も見たし、どれだけ彼女の曲を聞かされたことか?

 

実を言うと、彼女の声があまり好きではない。

私は圧倒的に声がいいシンガーが好きで、正統派の歌のうまい人が好きだ。

もう彼女のライブは行かなくてもいいかなと思っていたが、

今回は三味線プレーヤの上妻さんとのセッションということで

興味が湧き上がった。

 

やるなアッコちゃん。

本人に言ったらご丁寧に一拭きで払拭されるだろう、きっと。

でも、彼女が60代であることが私には驚愕なのだ。

 

今回、一番心をぐっと捕まえられたことは、

歳をじっくり重ねると人間どんどん自由になって行くのだろうか?

今回の彼女の歌とピアノは塗り絵ならはみ出しまくって違う絵図を描いて、

舞い戻ってきた絵筆のよう。前回見たパフォーマンスよりもさらに自由。

さらに、腹が据わって力強く、深海のように重厚でありながら

どこまでも飛んでいく。

 

 

好きなことを増やす

 

少し先輩の方がこんなコラムを書いていた。

老後に向けて、自分が楽しめる新たな引き出しを増やしていった方がいいと。

なんだか共感できたと同時にそういえばひとつ私にも増えたことがあった。

 

夫の趣味のひとつがボーリングであるが、私は嫌いだ。

なぜならとてつもなく私には難しく思うようにいかない競技に思えるからだ。

 

しかし、週末、夫のボーリング場通いに付き添ううちに、

上級者のボーリング観戦がとても楽しくなって来た。

今ではプロボーラーなんかがいれば追っかけて見に行ってしまう。

 

自分では思うようにいかないので、美しいフォームや

きれいにピンを倒していくのを見るととても気持ちが良い。

そして、奥が深いのも少しづつ分かって来た。

 

ボーリング場でゆっくりコーヒーをすすりながら、夫を応援したり鼓舞したり、

キョロキョロとうまい人たちのゲームを分析したりする。新たな引き出しになるか?